疑念

幹部に新事業について説明。いくつか看過し難いことに気づき、半ば怒り、半ば呆れた。気持ちは立て直すが、己の中でしっかり言語化しておく。

第一に、自社商品への理解度の低さ。すでにある機能を誤って認識しており、正しい事実認識すらしていない。それは自社のことを知らないということでもあるし、部下の仕事を見ていないということでもある。いずれにせよ失格である。

第二に、新しい事業への懐疑。いや、懐疑があることは仕方がないとも言える。伝統の中には守らねばならないこともあるし、潰すべき懸念というものも確かにあるからだ。それにしてもである。説明の間、一貫した懐疑的な態度を取り続けるのはどういうことか。組織として取り組むことはすでに決定し、その主管部局であることもすでに決定している。賽は投げられているわけだ。あとは覚悟を持ってどうすればよりうまくいくかを考えるほかない。つまり、覚悟ができていないのだ。

この一貫した懐疑的姿勢は何に起因するのか。職業病といえるのかもしれない。だとすれば、問題はめまいがするほど根深い。他者の説明の理を検証し、粗を探し指摘すること自体が職業的習いとして精神の深い場所に根付いているのではないか。だとすれば、あの態度も説明可能である。自社内の、部下の説明の粗を探し、己の精神的、知的優位を確保しようとしているのである。さらに言えば、責任を回避しようとしているのである。

これは第三の問題点、他人任せの姿勢にそのままつながる。「あなたたちが早く具体的なアイデアを出しなさい」。他者の瑕疵や問題を探し、指摘するが、そこから先は我々の仕事ではない。これが彼らの精神性、仕事への姿勢そのものだとすれば、課題解決など本当の意味では考えたことなどなかったのではないか。己の知的優位を誇示し、問題を指摘し、解決は当事者に委ね、突き放す。その姿勢を見透かされているからこその現状でなのではないか。商品が売れないことの根底には、社会の変化以上に、自らの無責任性こそがあるのではないか。

そして第四、自らの仕事への不誠実である。なぜこれほどまでに自分たちの商品を信じることができないのか。その態度では、売れないと分かっているものを日々送り出し、金を取っていることになりはしないか。いや、事実そうなのだろう。分かっているのだ。良くない商品を送り出しているということを。にもかかわらず、新しい挑戦への覚悟もない。それはこの仕事の命脈を緩やかに絶つというということにほかならないというのに。なんという無責任、なんという不誠実か。

第五の問題として、視野の狭さも付け加えておきたい。新しい挑戦とは、ただ新しいマーケットを開拓し、収益源を増やすということだけではないのだ。そこには自らの仕事そのものが更新されるという可能性が賭けられている。そしてそれは、あなたがたがさも大事そうに守っているその仕事の、むしろ本質へと向かう行為なのだ。なぜそれを見ようとしないのか。

かつてプロジェクトを率いた人がどのような「壁」にぶつかったのか、垣間見たようにも思う。これに日々直面していたのだとすれば、それは傷つくだろう。ひねくれもするだろう。頑迷な幹部という単純な壁ではなく、そこに個人へのレッテル、さらに有形無形の性差別が加味される。恐ろしいことである。

そこで気がつくのは、お題目としての「女性活躍」である。これは正しき理念としての男女平等、女性の社会参画、多様性などというお題目の話ではないのだ。組織が変革というものを受け入れることができるのか、耐えることができるのか。組織の多様性とは、組織が生き続けるための必要条件なのだ。多様性を受け入れられない組織は、死ぬのみである。そのうち取り組むこと、やれる範囲でやることではない。最優先課題なのだ。ようやく理解できた。

「単純な利潤追求でも、散文的理念でもなく」(『レディ・ジョーカー』)

この単純で困難なバランスを追求するために、怒りと失望を飲み込んで前に進む。幸い、一緒に歩く仲間はいるのだし、我々の言葉に耳を傾けくれる人もいるのだから。

リチャード・ロイド・パリー『黒い迷宮』

買ったまま、なんとなく手を付けられずにいた本。2000年7月1日に東京で失踪したイギリス人ホステス、ルーシー・ブラックマンをめぐるノンフィクション。

とにかく、舌を巻くのは著者の取材力だ。家族、友人、六本木の夜の住人、過去の被害者、裁判資料…。ありとあらゆる情報を集め、話を聞いているという印象。ともすると情報過多だ。その過剰なまでの情報、事件の経過や前史を詳細にたどる中で浮かび上がってくるのは、事件そのものというよりも、事件が露わにしたその周辺の何事かだ。事件そのもの、あるいはその中心たる織原は、最後まで「穴」のままであるように見える。著者の取材力をもってしても届かない虚無として。

奇妙に印象的だったのは、クラブを経営する男がホステスの「采配」を解説するくだりだ。

「とにかく、よく観察することが大切だ」。ヘラジカの姿を追うベテラン猟師の笑みを浮かべながら、彼は続ける。「客の思考を見抜くんだ。トイレに行く途中で腕時計を確認したら、そろそろ帰ろうと考えている証拠だ。そんなときは、クラブ一の美人ホステスをあてがう。客がトイレから出てきたら、そのホステスが眼のまえで待ってるってわけさ。夢のホステスがね」。客がトイレのドアを閉めて出てくると、ホステスは熱いおしぼりを渡し、客の手を引いてテーブルに戻る。客はもう一杯だけ水割りを飲もうと店に残る。が、新しい女の子は一本三万円のシャンパンが飲みたいと言い出す。チクタク、チクタク。すぐに四時間目に突入。三時間と一分の滞在で、客は八万円近くを使ったことになる。そして、シャンパンを要求した夢の美女は、もう席にはいない。

なぜこうして書き出してみるまでに引っかかったのか。罠にはめられて手のひらで転がされてる客の滑稽さか、猟師たる男のディレクションの見事さなのか、それとも、おとぎ話めいた現実感のなさか。シャンパンを要求した夢の美女は、もう席にはいない。

こうして改めてよく見てみると、ちょっとした解説に過ぎないこのパラグラフは、この書物がたどり着いた何事かを縮約したパラグラフでもあるのかもしれない。東京の夜、あちこちの街で繰り広げられている儀礼たるおもてなし。街全体、夜全体を覆う虚構性。交わされる言葉ひとつ、身体の接触ひとつ、すべてがあらかじめフィクションであり、演者もそれを了解してもいる。

本来、人間を構成するはずの人間関係(人となり)を一切持たない織原の虚無は、この虚構と響きあう。女性ごとに異なる名前で接していることは、その一つの証左ともいえる。一方で、織原はこの虚構を可能にする約束事を破り、虚構を破壊してもいる。その瞬間、そこにはフィクションの支配者たる「ママ」や「マスター」のルールは及ばない。支配者の笑みを浮かべる「猟師」もまた、その技術は虚構の中において発揮されるそれに過ぎない。

最初に書いたように、著者はその圧倒的な取材力と情報量により、この事件を取り巻く状況のほとんどすべてを浮かび上がらせている。にもかかわらず、その中心にはぽっかりと穴があいたままだ。ただ、その穴を浮かび上がらせるためには、その周りをすべて埋めるほかなかったとも言えるし、それができたのは著者の力だろう。そして、最後に残ったのが穴、虚無であるということが確認できたときに、この書を読んできた道程を振り返ると、東京という巨大な街の虚構性、フィクション性が露わになっていることに気づくのだ。

 

 

黒い迷宮(下)──ルーシー・ブラックマン事件の真実 (ハヤカワ文庫NF)

黒い迷宮(下)──ルーシー・ブラックマン事件の真実 (ハヤカワ文庫NF)

 
黒い迷宮(上)──ルーシー・ブラックマン事件の真実 (ハヤカワ文庫NF)

黒い迷宮(上)──ルーシー・ブラックマン事件の真実 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

マイケル・サラ、ミッチ・ウェイス『タイガーフォース』

新宿の地下の古書店にて500円で投げ売りされていたが、ピュリッツァー賞受賞の帯につられて手に取った。

 

 

ベトナム戦争中のタイガー小隊による残虐行為、その全貌をわずかな端緒からたどって明るみに出した捜査官、そして事件隠ぺいの歴史を経て、隠匿された調書というバトンを受け取ったジャーナリスト。語られるべき出来事は、まだ世界のあちこちに秘められているのだろう。事実の命脈をつないだ良心とともに。

 

さて、タイガーフォース事件の核心はここだ。

元タイガーたちは、自分の言葉で、アプシーにすべてを語った。アプシーはそれを最終報告に書こうとしている。しかし、彼らが絶対に明かさなかったことがある。それは、彼らが恩寵から転落した理由だった。時折、彼らの不安と涙に、そのわけを垣間みることがあったが、 それ以上はわからなかった。彼らは、待ち伏せ攻撃、ブービー・トラップ、灼熱の太陽の間のどこかで、希望をなくした。しかし、彼らはそれを語らない。彼らは、夜の闇のどこかで、信仰をなくした。そして、終には悪魔の手におちた。

 現象や行為は語ることができる。語られうる。しかしその向こうにあるものは、表層の出来事の向こうに透かし見るほかない。あるいはその表徴を、影を、干渉を、読み解くしかない。村人に向けた銃の引き金を引かなった時と引いた時の違いを、だれが説明できるだろう。「太陽のせい」とはそういうことだ。

 

「語りえない」などという言葉は使い古され、いまさら不可知論などに与したくはない。現場に身を置くということは、それでもなお、不可知の何かに目を向けて、手を伸ばして、せめてその表層に触れるという行為だ。本当は作家の領分かもしれないが。

 

 

タイガーフォース

タイガーフォース

 

 

高村薫『晴子情歌」

何か月かかったのかよくわからないほどの時間をかけて、ちまちまと読了。旧字体の手紙パートは当初は苦痛だったが、読み進めるにつれ、不思議となじんできた。終盤には心地よいほど。とはいえ、すぐに次の「新リア王」に進もうという気持ちにはなれない。

この作品から何を読み取るか、正直に言えば、語ることは少し難しい。東北のある商家の血の物語。そこに立ち上がるのは、東北という地がまとう何か。戦後というある時代に流れた何か。戦争の経験者と非経験者、戦後の経験者と非経験者を分断する何か。

「言葉は爆発する」というのが、少なくともひとつのキーワードだろう。

百万の 言葉を習っても人ひとりの骨の音は実際に聞かねば分からねえ。それが言葉というものの正体だ。いくら積み重ねても言葉は言葉だ。戦前もそうだったし、戦後の安保も三池もそうだった。右にも左にも、あるのは過剰な言葉だけだ。戦前は戦地へ兵隊を送り出した言葉。戦後は労働者に米の代わりに配給された言葉、言葉、言葉だ。希望の言葉。社会正義の言葉。人間の言葉! ところが、いいか若ェの。言葉というのは過剰になると爆発するんだ。

過剰とも思える書き込みを連ねる高村薫が、これを語るのか。その意図は何だ。いまの政治や社会を語る言葉にこそ、この過剰は見いだせる。それをこそ浮き彫りにする語りというべきか。SNSの過剰に脳が浮かされたような状態になるのは、まさしく言葉の過剰に(そして「骨の音」の欠如に)落ち込むということなのだろう。

そして戦争を過剰に、饒舌に語りつくした足立の最後の言葉。

「真っ赤な、西日みだいな柿がうつくしかった。ルソンは美しかった」

 足立は丸めた背を揺すり、声を立てずに一瞬嗤ったようだった。あるいは蚤かミノガのように、記憶の最後の一糸を送り出そうとして全身を一瞬絞り上げたかだった。

「おめは分がらねえと思うが、吾ァど兵隊は家族や御国のために鬼になったんでね。敵兵ば殺す奴は殺した。殺せねえ奴はどうしても殺せねがった。吾ァ、米兵も保田も殺したいから殺した。吾ァには初めから鬼が棲んでいだんだじゃ。おれだげど。それが悲しいど」

 それから足立は、いましがた絞り上げた背を大きく震わせ、気管いっぱいに吸い込んだ空気を吐き出すようにして、「曹長があの靴さえ履いでねがったらーーーーーー!」と呻いた。まるで、あの夜初枝が最後に噴き出させたような声。自分が人間であることを訴えるように、世界に向かって噴き出させた声。

この場面について考えることは容易ではない。むしろ、これは解釈を許さない一場面かもしれない。ごろりと差し出された生身の言葉。ただ受け取ることしか許さない。

ひょっとすると、この言葉は「骨の音」たりうる言葉かもしれない。

 

言葉の過剰を考えれば、学ぶことも、書くこともすべては空しい。世界を分節しようとすればするほど、その言葉の間から世界は逃れていく。いやむしろ、分節することによって、そのものを見ることが不可能になっていくというべきか。純粋な器官に過ぎないイカこそが、世界をもっとも受け取っている。青い庭の中で、純粋な器官と化した晴子も、また。

それでもなお、世界に向かって噴き出さんとする声がある。しかしその声は、そもそもが不幸の叫びか?世界への怨嗟か?それは受け取ろうと努力するようなものか?その骨の音をこそ、探すべきか?

 

晴子情歌〈上〉 (新潮文庫)

晴子情歌〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

晴子情歌〈下〉 (新潮文庫)

晴子情歌〈下〉 (新潮文庫)