高村薫『晴子情歌」

何か月かかったのかよくわからないほどの時間をかけて、ちまちまと読了。旧字体の手紙パートは当初は苦痛だったが、読み進めるにつれ、不思議となじんできた。終盤には心地よいほど。とはいえ、すぐに次の「新リア王」に進もうという気持ちにはなれない。

この作品から何を読み取るか、正直に言えば、語ることは少し難しい。東北のある商家の血の物語。そこに立ち上がるのは、東北という地がまとう何か。戦後というある時代に流れた何か。戦争の経験者と非経験者、戦後の経験者と非経験者を分断する何か。

「言葉は爆発する」というのが、少なくともひとつのキーワードだろう。

百万の 言葉を習っても人ひとりの骨の音は実際に聞かねば分からねえ。それが言葉というものの正体だ。いくら積み重ねても言葉は言葉だ。戦前もそうだったし、戦後の安保も三池もそうだった。右にも左にも、あるのは過剰な言葉だけだ。戦前は戦地へ兵隊を送り出した言葉。戦後は労働者に米の代わりに配給された言葉、言葉、言葉だ。希望の言葉。社会正義の言葉。人間の言葉! ところが、いいか若ェの。言葉というのは過剰になると爆発するんだ。

過剰とも思える書き込みを連ねる高村薫が、これを語るのか。その意図は何だ。いまの政治や社会を語る言葉にこそ、この過剰は見いだせる。それをこそ浮き彫りにする語りというべきか。SNSの過剰に脳が浮かされたような状態になるのは、まさしく言葉の過剰に(そして「骨の音」の欠如に)落ち込むということなのだろう。

そして戦争を過剰に、饒舌に語りつくした足立の最後の言葉。

「真っ赤な、西日みだいな柿がうつくしかった。ルソンは美しかった」

 足立は丸めた背を揺すり、声を立てずに一瞬嗤ったようだった。あるいは蚤かミノガのように、記憶の最後の一糸を送り出そうとして全身を一瞬絞り上げたかだった。

「おめは分がらねえと思うが、吾ァど兵隊は家族や御国のために鬼になったんでね。敵兵ば殺す奴は殺した。殺せねえ奴はどうしても殺せねがった。吾ァ、米兵も保田も殺したいから殺した。吾ァには初めから鬼が棲んでいだんだじゃ。おれだげど。それが悲しいど」

 それから足立は、いましがた絞り上げた背を大きく震わせ、気管いっぱいに吸い込んだ空気を吐き出すようにして、「曹長があの靴さえ履いでねがったらーーーーーー!」と呻いた。まるで、あの夜初枝が最後に噴き出させたような声。自分が人間であることを訴えるように、世界に向かって噴き出させた声。

この場面について考えることは容易ではない。むしろ、これは解釈を許さない一場面かもしれない。ごろりと差し出された生身の言葉。ただ受け取ることしか許さない。

ひょっとすると、この言葉は「骨の音」たりうる言葉かもしれない。

 

言葉の過剰を考えれば、学ぶことも、書くこともすべては空しい。世界を分節しようとすればするほど、その言葉の間から世界は逃れていく。いやむしろ、分節することによって、そのものを見ることが不可能になっていくというべきか。純粋な器官に過ぎないイカこそが、世界をもっとも受け取っている。青い庭の中で、純粋な器官と化した晴子も、また。

それでもなお、世界に向かって噴き出さんとする声がある。しかしその声は、そもそもが不幸の叫びか?世界への怨嗟か?それは受け取ろうと努力するようなものか?その骨の音をこそ、探すべきか?

 

晴子情歌〈上〉 (新潮文庫)

晴子情歌〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

晴子情歌〈下〉 (新潮文庫)

晴子情歌〈下〉 (新潮文庫)